【26】2004年、最初の講演会~当事者としての声を伝える為に・・

 
 手記の連載 『沙羅双樹の木の向こうまで』

今日から、私の2004年秋に行なった「講演会」の文章を
載せます。当時、会場で、受け取り、お持ちの方もいるかと
思いますが。一応、手記にも載せました。

(文章は、原文のままですが、この連載と重複する部分は、
省かせていただきました・・)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      2004年  アハメッド 敦子講演会              
 「親子供にアスペルガー症候群と判明して・・・今、私は」      
 
この文章は以前、私が「高機能自閉症~アスペルガー症
候群とその他様々な発達障害が併発、さらに二次障害へ
移行してゆく中で」という文章を作成し(自力で行政、その
他の団体、友人、知人へ語りながら、配って歩いた一年でし
た。)~まとめたものから、一部抜粋し、加筆したものです。                        

私自身のことを語ってゆくためには・・                       
                                   
 

一人息子として生まれたS。                     
                       
今になって振り返ってみると、アスペルガーであった(母親で
ある)私自身が、供にアスペルガーであった子供をしっかりと
育てられずに、母子供にパニック、混乱続きの毎日でした・・

子供が小学校5年生の冬、通院し始めた医療機関と平行して・・                   
                                   
 
母親である私自身も、人とのコミュニケーション、関わりの中で
いつも躓き浮いてしまう。

また、こだわりも強く気に入った色とか・・・服しか着ない。
(子供も全く同じでした。)       

私の父も考えるとそうでした。        

私が、24歳の時に亡くなり(当時私は遺跡発掘調査の現場で

5年程働き、気の合う仲間たちも沢山いた時代でした。)                
 

父は若い頃、美術大を卒業し、独り山歩きや写真(フォトコンテ

ストにも入選している。)占いなど・・・その後、伯父(母の弟)と

共同で造形、絵画、こけし造りなどアトリエで創作活動を行なっ

ていたようです。       
                                   
 
私は幼少時、カンナくずのカールの山の中に埋もれ遊んでいた

遠い日の、あの幼い日々の記憶が何十年も経つ時の流れの中

で未だ、ふと思い出されてくることがある・・・


                         続く・・                          
         

【25】 離れて暮らす 我が子を想い~祈り続ける日々の中で・・

  『沙羅双樹の木の向こうまで』

 前回の続きから~


私は今

私自身がこれからどう生きてゆくべきか、残され、

与えられているものは何か・・・ 

自らの心に問いかけながら生きてゆきたいと願っています。

こうした中から必ず我が子の「希望の光」をいつか見出して

ゆけるはず! 


今は離れて暮らす我が子Sを想い、願い・・

祈り続ける日々です。     
 

あの子が、Sが薬の副作用なんかに決して負けず、S自身の

魂を見失うことがありませんように・・ 

そうして、いつか必ずS自身の「生きる場」「真の生活の場」を

得てゆくことができますように・・・                
 


あの子の魂は決して今、この目の前に現れている「試練」に

負けはしない・・

あの子が、Sがいつか自分自身を取り戻し、再び私と親子を

やり直せる日々が訪れたら・・ 


「親子」という同じ色の階段を登ってゆきたい・・・      
  

そう願い、私はたった一人この家で生きている。    



                           



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【24】聞き取り調査~育成歴~我が子の困難さ~


【沙羅双樹の木の向こうまで】

前回の続きから~



ただ「問題行動の多い、乱暴な子供」という印象付けで

通してしまったのです。    


そのために当初、受け入れた学院側では、Sの様子や

状況がわからず、私からの聞き取り調査や今までの育

成歴の中から、少しずつ子供の問題点がクローズアップ

されてきたのです。                     
   

そして現在までの学院の先生方とのやりとりのなかで、

少しずつSの困難さ、この先いったいどの様な関わりを

していくことが、少しでも先の見える状況につながって

ゆくのか、私も毎日我が子のことを離れて暮らしながらも

祈る毎日です。                          
   
 
親子だから、血はつながっている・・

当たり前のように言われていますが、親子であっても身体

も心も別々。          

考え方も受け止め方も違う。


それでも血がつながっているとしたら、それは「魂の絆」

があるから、その魂が知っている。 
 


親は子供が誕生したときから、大きな喜びを与えられ、

親もまた子供に無償の愛を子供の健やかな成長を願う。                   
 

けれど、この世に生きてゆく中で人は様々な試練に廻り

あう。     


病で亡くなる方、身体的ハンディを背負って‘障害‘という

形を引き受けてゆく方。   
  

いろんな困難が生きてゆく世界には散らばっています・・  

【23】場違いな施設~施錠~薬漬けの日々が・・

 『沙羅双樹の木の向こうまで』


前回の続きからです・・・ ***



そして、その後再び更に児童相談所から

「お母さん、もう入れる施設はありません。選んでいられ
ないでしょう・・・

何処でも空いている所に入れてもらうしかないでしょう。

ここにも長くはいられないし・・・」      
 

私はただ、ただ心の中で涙するばかりでした。


そして平○○年の秋。 

子供は県の‘措置‘の扱いで、家庭裁判所の「保護事件」
扱いとして書類は出され、「児童自立支援施設」に入所し
ました。               
 
入所してから、毎日子供の部屋の残された荷物を見ては
泣き暮らすばかりの日々でした・・・     



入所して2週間ほど「観察寮」という鍵付きの個室に閉じ
込められてしまう状況でした。 


Sは東京の病院で処方された薬をそのまま同じ種類を未
だにずーっと服用しています。

(5種類以上もの向精神薬など・・)私は心の中で今も訴え
続けています! 「薬漬けにしないで!どうかスポーツで
も作業でもなんでもいい・・!   

心のケアーを願う。


けれどあの子が・・・

Sが今いる施設は、違うのです。確かに専門の医師もい
て、職員の先生方も熱意ある関わりをしてくれている。                                 
 


けれど、学院の先生方が私に伝えてくれました。

「お母さん、S君はここに来るべき子ではありませんでした。

児童相談所にも一度書類を突き返したのですが、無理押し
で通してしまったんですよ。    



私たちも本当にS君の扱いに困り悩んでいます。

S君の先がみえないのです。「お母さんの方でも何か情報が
得られたら、その時は伝えてください。」

このようなやり取りが何回もありました。

今回も、児童相談所から学院に入所する時、すべてを伏せ
て入所させてしまったのです。   


                          

行政の壁に、孤立無援の闘いの日々の中で~

『沙羅双樹の木の向こうまで』

 前回の続きから・・



戻された児童相談所も困り果て、全国の施設へ手配を
お願いしても何処も受け入れは整わず、

又病院へお願いに行っても東京の病院の紹介状を見せ
ると、

一様に「施設で充分やっていけます・・・って書いてある
じゃないですか。 

病院じゃなくてもいいんじゃないですか?施設を探してあ
げたらいいじゃないですか。」と、どの病院からも言われ
るばかり・・・             
 

私も、我が子の為に日本中の受け入れ先を探しました。

もう、本当に電話代が5~6倍になってしまう程・・・                     
 
けれど、どこも見つからなかったのです。出版会社、様々
な市民団体、市議会議員、スペシャリストの方々など本
当に手を尽くしました。       
 

マスコミの取材もある時受けました。  
 
情報も取り入れましたけれど、どこも様々な理由を付けて
受け入れを拒否してくるのです。 

厚生労働省や県の様々な施設へお願いしましたが、すべ
て駄目でした。

児童相談所では施設が見つからないため、困ったあげく私
にこう言ってきたのです。                                 
 
「お母さん、お子さんを鑑別所に送るかもしれませんよ。」
と・・                

私は「えっ!なんでそんな?」    

訳も分からずショックを受けるばかりでした。 

私は必死になって抗議しました。  

その後も児童相談所では私の知らない間に手続きを取り、
更正施設に入れてしまおうとしたり、

(その時も私は厚生労働省の方から、その施設に電話を
入れてもらい、子供の状況を側面から伝えていただいたお
かげで、入らなくて済みました。)                            
 

けれど、障害を持つ子の一人の母親として・・・

無力の私には、行政にたった一人で立ち向かっていく力も
無く、訴える声もかき消されてしまうばかりでした。   


                                                      

【21】閉鎖病棟に入院した我が子~行政の隙間に落とされ・・

前回の続き~その後・・


けれど・・

私の知らない間に福祉の扱いが、いつの間にか県の児童福
祉法の扱いに切り替わっていて、子供の扱いが私の手元から
離れてしまっていたのです。

(書類だけが知らない裏側で動いてしまっていたのです。)
 

私は大分後になってからこの現状を知らされ、愕然としてしま
い、この状況を一年の月日をついやして様々な相談機関に訴
えて歩きました。         
  

そして、Sの入院から約1ヶ月半後・・・ 

県と都の金銭的な扱いの違いから「退院」せざるを得ない事態
に追い込まれ、治療の必要が残されている子であるにもかかわ
らず、行政の対立のために無理矢理の退院となってしまいまし
た。                                  
 

そして再び児童相談所の一時保護所へと戻されてしまったので
す。    


東京の病院側で出した‘紹介状‘の内容は「施設で充分やって
いけます。」の文面でした。     

治療途中とは書けなかったからです!            

何故、この様なことが起きてしまうのか・・・ 



私は子供を何とか再生の道へ歩ませたいと願っているだけな
のに・・・               
 
悔しくて、悲しくて、辛かったし本当に誰に、誰にこの思いを聞い
てもらえるだろうか・・・                            
 

当初、単なる「ADHD」では・・・?
と言われていたSでしたが、通院中の病院で最後に「アスぺル
ガー症候群では・・・?」と、医師と専門家の方から言われていた
のです。          




                                           
 

私は必死になり書店を歩き回り、関連図書を探し求める日々が
始まりました。     


東京の病院の時には「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」
さらに様々な発達障害が併発していて、すでに二次障害へと移
行している状況とのことで・・

東京の閉鎖病棟でも「今までSのような、ここまでの症例はなか
った。非常に難しい症例ですね・・」とまで言われてしまった現実
があるのです。  
 

治療途中で行政の対立でSの治療はストップし、予定されていた
「院内学級」も中止となり、再び児童相談所へともどされたのです。
                      

県でも、「こんな状況で東京の病院へはもう頼めない・・・」と、引き上
げる書類にしてしまったのです。     
                            




【 20 】救急搬送された私~その後・・



私は「何故!?刑事さんが来るんですか!帰ってください!」
苦しい声で訴えましたが・・         

「いや、お母さんは病院に行ったほうがいいから・・」   
                                   
こんな状況で、子供は児童相談所に移送され、私は救急車で
病院へ。                

サイレンの音とともに救急車は走り出し、私は救急車の中で言
いようのない悲しみで、涙が後から後からあふれてきました。                
                                    

警察でもSの通院状況、学校、近所での問題行動を良く知り、
分かっていたので随分とSをなだめながら(途中、ジュースも
買って来てくれたそうで)児童相談所に連れて行ったことを、
だいぶ後になってから聞かされました



それ以前に、当時通院していた病院の紹介で、4月11日に
東京の精神病院の思春期対応の病院に、すぐ入院出来る様
になっていたのですが・・・       
 

それ以前にこの様な問題が起きてしまったのです。

その後、私は10日間程、シェルターに入っていました。

私自身、混乱していたのです。     

起きた事態に私は、何故あの時少年課の刑事さんが来る事態
になってしまってのか?                        
 

確かにSのあの時の目付きを見た時、私は「もう、私一人の力で
はどうしょうもない・・」と、思い誰か救いの手を求めたのは確か
です。

不安になり「一人ではもうこの子を押さえられない。


このままではこの子自身がだめになってしまう。何とかこの子を
この状況からすくいださなくては・・・」     
 
ただ、ただそればかりでした。        

このまま放っておいたら、子のこの未来が絶望的な物に変わって
しまう!
 


あの子自身、幼児期から他の子より多動で乱暴でトラブル続きの
日々でした。                                 
 
そのまま児童相談所の一時保護所に預けられていたSは、結局
地元中学へも名前だけの入学となってしまいました。


地元中学へ一日も通えないままで・・・                            
 

そして、4月11日、


元から予約していた状況の通り、Sは児童相談所から東京の精神
病院(思春期の閉鎖病棟です)に移されました。  

卒業式~ Sのパニック攻撃で倒れ・・救急搬送された私・・




そして、遂に卒業式。                        

Sは同級生と同じ中学校への進級を自らの内側では願って
いました。  

もう、誰も自宅のチャイムを鳴らし、遊びに来てくれる子は一人
としていなくなってしまいました。                           
 

学校の先生方も正直、内心ほっとしているのが現実であったと
おもうのです。けれど、仕方の無い状況でしたから・・・

私は、ただただ・・感謝することしかできませんでした。                      
 
こんな手のかかる子を、それでも卒業式の日まで見てくれた
のですから・・・                              
                                   
 

卒業式の次の日からSにとって、そして私にとって大きな試練
の始まりが訪れるとは、夢にも思っておりませんでした。                
                                   
   

中学入学までの春休み。    

その第1日目。 朝はリタリンを飲み、落ち着いているかの様子
(効果は約、4時間。)でした。             
 

お昼頃、窓の外が何だか騒がしい。

Sの喚いてる声と他の子の声が・・・

何かをいい合っている。                          
 
私は慌てて外へ出た。Sが低学年の子のカードを取り上げ、意
地悪をしている。


私はSを家に連れて帰り(この頃はリタリンは1日2回になって
いました。)リタリンを食後に飲むよう促した途端!               
  

Sは私に突進してきて、蹴り、パンチをしてきたのです!

私とSは精神修養の為と、良かれと思い・・・、少林寺拳法、空
手と武道をやってきていたのです。


そのために私は受けの技でかわし続けているうちにSの行動
がとまり、ホッとした次の瞬間! 

Sの新たな蹴りをみぞおちにまともに受けてしまった私は(元々、
胃に持病があり・・・)吐いて倒れてしまいました。    
 


ボーっとした意識の中で私は(「もしかしたら・・大変なことになっ
てしまうかもしれない・・・ 誰か助けを呼ばなくては・・・。」)       
   

気づくとSがパニックを起こしながらアイスノンを持ってきたり、タオ
ルを持って来たりしながら泣き叫んで、私の背中に貼り付いて揺
すっている。                    

私はSに「市役所の児童相談員さんに電話して、隣のおばちゃん
を呼んできて・・・」

Sは泣き叫びながら隣の家のチャイムを鳴らしている。     
  

それから、すぐに隣の人と市役所の児童相談員さんが来てくれた
のですが・・


何故か?少年課の刑事さんが二人!!?     

【 18 】 モップの取り合いから、大パニック!大問題!

ある日のこと・・


Sは、同級生の子にモップの

取り合いから、パニックになり、相手の子を押し倒

し顔を引っかき、あごを手で押さえつけてしまい、



相手の子は、学校から病院に連れてゆき、検査

を受けました。       


幸いにも検査では異常は無く、放課後校長、担任

同行の元、その子の自宅に誤りにゆきました。      
 

その子の母親から後日、「うちの子はお宅の子に殺

されそうになった! そんな子を野放しにしておいて

いいのか!」と、激しく抗議を受けてしまいました。

                                   

後日、中学校の校長から呼ばれ「Sくんを入学させな

いで欲しい!」と、抗議を受けたと、伝えられたのです。



そして、続けて「お母さん、何もうちの中学でなくてもいい

んじゃないですか・・・? 他にも中学校はあるわけだし・・

その方がS君のためにもよいとおもいますがね・・・

どうですか?その方向で考えていただけないでしょうか

ね・・・?」と言われ、愕然としました。  
                                   
 

その日から私の心はさらに悩み続け、答えを見つけられ

ないままにあちこち情報機関や相談機関をひたすら探し

続けました。          



                           

【 17 】 エスカレートしてゆく、わが子の行動 ・・!



2学期に入った頃には

修学旅行もあり、担任・教務・養護の先生にお願いす

るとともに、リタリンを預け出発!


心配はしたものの何とか無事帰宅しました。                                 
 


この時期、反抗心からかリタリンを飲むことを嫌がり、病院へも

私のみが小児科医へ面談、薬だけを貰って帰っていました。


そして2学期も終わりに近づいた頃にはSの行動もかなりエス

カレートしてゆくばかりで、学校の消火器を振り撒いてしまったり、

パニックを起こし学校のガラスを割ってしまったり、   



備蓄倉庫の壁に穴を開けてしまったりと、学校中が大騒ぎとなり、


保護者からも様々な批判の声が上がるようになって、PTAや教育

委員会でSの中学進学をめぐって協議が行われました。                    
 


一時期は学校全体で、Sに関わりを深め、希望の光も見えかけて

きていた状況の中で市内で唯一Sの通う小学校に「通級指導教室」

まで出来、他校からも通ってくる状況にもなっていたのです。                 
 


3学期に入り、母親の私が見ても(「ああ・・、もう、この子はどうなって

いってしまうんだろう・・・。」)一体どうしたらよいのだろう・・と、途方に

くれる日々でした。                                   
 

それ以前から児童相談所にも9年間も通い、様々な教育機関、カウン

セラー相談に駆け回ったのです。      



           
          
          

【 16 】 心中未遂から救われて~ その後・・

     【沙羅双樹の木の向こうまで~】 連載
 

その後・・



校長先生は慌てて、「お母さん待ちなさい!何でもしてあげるから、

死ぬのは待ちなさい!」                           
                                   
 
 次の日から教頭先生が毎朝、付き添い登校してくるSを下駄箱の

ところで、立って出迎えて下さるようになり、教室まで手を引いて連

れていってくれたのです。          

そのおかげで私はあの時、死なずに済んだのです。         
 


各、担任の先生方も学年ごとの引継ぎを上手くしてくれ、子供たちも

Sの困難さや、苦手な面をカバーしてくれたり、授業中、一人校庭で

紙飛行機飛ばしばかりしていたS。     
 


休み時間の間にどこかえ姿を消してしまう度に、教務主任や教頭先

生が学校中捜したり、Sが同級生に手や足を出したりするときでさえ、

お友達の方がうまくかわしてくれたりで、私は申し訳ない気持ちでいっ

ぱいでした。                                        
                                   
 

 けれど、この状況が一転したのは6年生に進級し、男性教師の担任

のクラスになってからでした。                          
 

だんだんと思春期の入り口に近づきつつある状況も手伝って、(実は5

年生の頃から或る国立の病院に通院し始め、リタリン(10mg)朝1回

服用の状況で処方してもらい、5年生の担任も病院の医師と会ってくれ

ていました。           
 

ある専門家の方から最初は単なる「ADHD]では・・・?との指摘もあっ

てのことでした。                           
                                   
 

 6年生に進級してからは担任教師が事あるごとに、(Sが問題行動を

起こす度に・・)同級生の生徒に向かって「Sは病気だから・・病気だか

ら・・・」 と言ったり、


怒ってSを教室から「でていけ!」「廊下に立ってろ!」   
 
子供自身もますますパニックがエスカレートしていき、暴れるわめくで、
                           
大騒動の毎日が続き、5年生まではカバーしてくれていたお友達も、

口の悪い子が「Sは麻薬を飲んでいるんだよ!」(リタリンのこと・・。)      
 
                      

同級生も一人・・また、一人・・とSから離れてゆきました。それと並行し

て学校からの呼び出しの連絡を受ける回数も増え、担任の教師もパニッ

ク状態でした。                                     

【15】 子供との、心中を考え~・・(子供の保育園を突き止められ、一騒動!)



そうしたある日!

彼に子供の保育園を突き止められ、一騒動!      
 
その後、離婚調停、裁判の繰り返しで、引越し・・・また引越し。

落ち着かない生活の中でSは5回も保育園を転園しました。
そして小学校へ入学。

この頃、リフォーム会社で働いていた私はSを学童保育に預け
ていました。

学校の担任、学童の先生方はとても人情味があり、本当にSの
問題行動に対しても暖かい対応をして下さり、そのおかげでSに
とってもずいぶん恵まれた楽しいひとときも増していたようでした。                    
                                   
 
けれど、隣家に暴走族上がりの長男がいる3兄弟がいて、両親と
も真夜中過ぎても働いていて不在がちの環境で、気が付いた時
には私は、子供たちの半ば母親代わりのような役割的存在になっ
てしまっていました。        
 
そんな少年たちではあっても、Sに対しては弟のように可愛がって
くるのです。

けれど、子供の成長過程を懸念し始め、転居を余儀なくされ、又も
引越しました。

2年生の10月、隣町小学校へ転校しました。

年齢も少しずつ上がり、保育園時代と違って周囲の状況、人間関係、
お友達など少しずつ分かるようになってきていた中での出来事で、
もともと人との関わり、コミュ二ケーションの困難さを抱え持っていた
子供にとっては、あまりにも大きな出来事だったのです。                              
 

新しい学校に一人で通学班に混ざって登校することが出来なくなり、
付き添い登校する日々が2年近く続いて私もかなり辛く、苦しかった
毎日でした。 
                                   
 
この時期、何回か子供とともに「死」を考え、実行しようとしていたの
です。
校長先生にお電話で、「私は今、本当に辛くって苦しい!これから
子供と死にます!」 


                                            

【 14 】 夫婦でありながら、 ストーカーのごとく・・



やがて、そうした日々は数か月後に私達の生活の中で、

決定的な事態を生み出してゆくことになってしまうのでした。

∵・∴・★  

彼の養育に対する考え方、物事の捉え方、人との関わり方に

おいて、私の理解を超えたところまで達してしまったうえ、彼の

しつこい性格。


夫婦でありながら、私の日々の行動をまるでストーカーのごとく

「尾行」してきたり、ある時は私をトイレに押し込めようとしてきた

り…              


耐えられなくなった私は、ある時彼に「そんなことばかりするなら、

私はこの家を出てゆく。」と訴えると、彼は態度を急変させ

私に向かって・・  


「いいよ、いいよアナタ、それなら私、殺していいよ!

早く殺してアナタ出て行っていいよ!」   

そう言いながら、私を部屋の隅の方へとジリジリと追い詰めて

くるのです。



この頃から、私はだんだんと彼に対する信頼感が少しずつ心の

内側から消えつつあったのです。       


こんな日々が続いたある日、私は子供の手を引いて多摩ニュー

タウンの家を離れてきました。 別居生活の始まりでした。


そして彼には住所は伏せ、実家の近くに移りすみました。

子供は市内の保育園へ転園。母子家庭の始まりでした。



子供の父親は必死に私と子供の居場所を探し求めていたよう

でしたが…               


└|∵|┐☆*:・°★:*:・°(次回に続きます。) 

【13】 生まれ育った国~文化の違いが、子育てに反映?そして、決定的な事態を・・

時々、子供と二人で散歩にゆき…

帰ってくると、子供の両手にはいつもお菓子がいっぱいでした。

私は子供の虫歯が心配になり、彼に対して「お願いだから、そんな

にお菓子を買い与えないで…」と、その都度伝えましたが、その後も

同じ事の繰返しで、私としてはかなり悩み果てていました。


☆*:・°★:*:・°∵・∴・★☆*:・°★:*:

彼の生まれ育った国は、この日本よりはるかに貧しい国であるため、

お菓子なども好きな時に食べられるわけではなく、彼自身も少なくとも、

そうした状況下にいたはずであったと思うと、必要以上の指摘は出来

なくなってしまうのですが…


彼にしてみれば、そうした自分の母国での想いとが重なり、「我が子

にはお菓子をいっぱい買ってあげたい…」


そんな気持ちがこの様な行動に現れてしまうのかもしれないとも考え

てみたりするのですが…


こうした様々な面での生活習慣の違いや言葉、文化の違いなどから

生じてくる溝は日々深まってゆき、理解し合えない壁として、二人の

間を徐々に引き離していったのでした。


--*--*--*--*--*----*--*--*--*--*----*--*

やがて、そうした日々は数か月後に私達の生活の中で、決定的な

事態を生み出してゆくことになってしまうのでした。


∵・∴・★

【 12 】 国際結婚~子育て、姉の看病が我が子にしわ寄せとなって・・




この多摩ニュータウンに転居してからも、相変わらず姉の看病
通いと、子供の父親の「配偶者ビザ申請」の為の活動の日々は
続いていました。  

姉の病院へは、多摩ニュータウンの団地から多摩センター駅まで
バスで20分。
京王線に乗り、新宿から山手線に乗り換え大塚で下車。そこから
病院の送迎バスで姉の入院している癌研まで行くのです。

煎じた茸のエキスを2リッターボトル2本に詰め、洗濯物やゆでた
お蕎麦やおかずなど…

これらを大きなボストンバックに詰めて持って行きました。

夏の暑い時期は、中の物が腐らないように、ダイヤアイスの大袋
をタオルに巻いて入れるため、かなりの重量となった・・


子供の保育所の登園時にボストンバックを担いで家を出て、子供
を預けるとそのままバスに飛び乗り、週三日は姉の病院に、2~
3日は職場に向かうという状況でしたから、悲しい事でしたが自分
の子供に目を向けるゆとりというものがありませんでした。


結局、子供にしわ寄せとしていろいろなことが起きてしまいました。

☆・~*・☆・*・~☆  

子供の父親はといえば、私と同様初めての団地生活。
そして団地の住人たちとのかかわりのなかで、様々な
生活の変化が訪れていました。

夫である彼は、団地の住人側としては、初めての「身近な外国人
とのかかわりの」とあって、もてはやされていました。

週末ごとに繰り広げられる団地の集会場での集まり、飲み会へと
足を運んでいくたびに、カレー料理やスープ、その他お店で作った
りしている様々な料理などを、自宅のキッチンでつくっては自治会
集会場へと運び、彼なりの交流?をしていたようですが…


その度に家の冷蔵庫の食料が減っていくのです。

この様に彼は週一回の仕事の休みである週末ごとに、朝から夜遅
くまで自治会の集まりに参加しっぱなしで、我が家の夕食タイムに
も戻って来ないような有様でしたから、当然子供とのかかわりの時
間も、ほとんどありませんでした。 

彼は子供に対し、父親として愛情を持っていたようですが、日本人
の一般的な父親とは異なる「愛情表現」も見受けられました。

【 11 】 新たな環境に、適応できない我が子・・


この「M保育所」で同じクラスに一人、乱暴な男の子がいました。


毎朝、Sが登園して教室の中に入るや否やすぐさま、その男の子
(名前は覚えていないのですが…)が

近付いてくると同時にSを突き飛ばしたり、押したりするのです!
それも毎朝。 

私は「ダメよ!そんな事しちゃ。」とその子を叱りましたが、その子
の態度は相変わらずでした。

この保育所ではSはそれ程クラスの子をいじめたりとかそんな事
はほとんどなく、むしろ急に変ってしまったお友達関係や環境の
変化に、戸惑っている場面の方が多く、つつかれては逆に泣い
ている有様でしたから…          


けれど、ある日その子のお母さんを見たとき初めてその子がSに
意地悪したり、乱暴したりする理由がわかったのです!

お母さんは身重だったのです。  
それでその子は今までの様にお母さんに構ってもらえず、子供な
りのストレスからSに当たっていたのです。

次の朝、その男の子がSに突進?してくる前に「おはよう…!」と
声をかけ、その子を抱きよせ、「Sと仲良くしてね…」というと、

その子は照れたように笑って、その日はSを突き飛ばすことはしま
せんでした。               

それから私は毎朝、その子に向けて同じ行動を続けてゆくうちに、
その子の行動が収まったのを記憶しています。   


☆*:・°☆:*。゜☆

そうしたある日、同じ団地に住む双子ちゃんの一人の方の女の子
から「愛の告白」を受けたS!   

2人仲良くてをつなぎ教室内をお散歩。(お邪魔な私はこっそり
その場を離れて退散…。)

悲しいことの多かった中で、こうした我が子の心暖まる場面もあっ
たりで、今もその時の小さな可愛らしい恋人に感謝とともに想い出
としてよみがえってきます。      

【 10 】 転居~、新しい保育園~新たな問題が・・


【新天地へ】☆彡☆彡☆

こんな生活を送っていたある日!

多磨ニュータウンの団地に当選したのです。友人や家族に手伝って
もらい、新天地へ!        

それなりにひとつの夢を描いての引っ越しでした。
けれど、我が子にとっては適応できない環境を増やしてしまうことに
なっただけでなく、事前に近くの保育園に空きができ、転園して数か
月も通わない状況の中での団地の引っ越しとなってしまったのでし
た。

引っ越しは友人や家族のおかげで無事終了! 


新しい地での新たな生活が始まりました。

子供は団地のはずれの「M保育」という入口に大きな麒麟の親子の
木で造られた、かわいいシンボルのある一クラス45人という大きな
保育所に入園しましたが、それに対して保母はたったの3人!

「多磨ニュータウン」というマンモス団地群の中の保育所とあって、一
人一人の子供達に手を掛けている暇もないほどの忙しさに追われな
がらの子供達との関わりでした。

若い先生がほとんどで、まだそんなに子育て経験豊かと、言えるよう
な状況ではなかった様でしたから…。         

Sがものすごく手がかかるとわかると、半ばほったらかしの状況で、
Sはストレスからしょっちゅうおもらしをしていたようです。


丁度、夏に入る時期でプールも始まっていたのですが、Sはひと夏、
プールに入れてもらえませんでした。 

保母たちによると、「プールの中でおもらしされたら困るので見学を
させました…。」と、いう返事で、次のときもその次も…。
結局プールが終わるまで一度も水に入ることはありませんでした。

ある時、保母に「Sをプールに入れてください…。」とお願いしたところ、
保母から帰って来た返事は「S君がプールに入らなくていいと言って
ましたから…。」と知らん顔されてしまいました。  


私はその日の帰りSに「本当にプールに入りたくないの?」と聞くとSは、
「入りたい…」と、ポツリ…!     

私は愕然として、母親として物凄く傷つきました・・・  


          続きます・・

【 9 】 我が子の 自傷行為が、エスカレートしてゆく中で・・



スーパーに行けば行ったで、棚の商品を片っぱしから落してしまっ
たり、買い物カートで突進して他の買い物客に激突させてしまった
り、気にいらないとスーパーだろうが、デパート、人混みの中…

どこでもそっくり返っては、ギャーギャーとわめいて暴れて…。

おまけに自分の体で受付カウンターに体当たりしたり、自傷行為も
エスカレートしていきました。
                      

あるときは家の玄関から靴を履いたまま台所の壁にまで突進して
ゆき、小さな体でよくあれだけの力があるかと思えるほどの勢いで
ガンガンとやるのです。


ひどいときは、玄関の床に自分のおでこを打ち付け、血が出てし
まったことさえあったのです。

今、思うと本当にこうした子供の凄まじい自傷行為や癇癪に、なす
すべもなく振り回され続け、母親としての悲しい姿を世の中にさらし
続けてきてしまいました。               

それでもこんな状況のなかで私が死なずに生きてこれたのは仲良
くしてくれた友人たちがいたし、同じ状況を抱えた人たちとの交流が
あったからこそでした。

毎日、保育園で責められ、あちこちで責められ続け、母や兄、身内
の家族、果ては他県で暮らす親族にまで(母の電話の愚痴によっ
て知り得た。)

責められ「しっかり子育てをしろ!きちんと躾をしろ!」と、叱られた
りで行き場がなかった私にとっては、友人や仲間の中にいることで、
何とか平静さを保ってこれたのかもしれない…。
                     


こうした状況の日々を送る私に、また新たな様々な問題が近づいて
きていたのですが、その前に私の病気(乳癌の宣告)がどうなった
のかといえば…

その後、心配した母や姉の意見を受け入れ、検診を受けた病院で
再検査を受けました。
                          
再びCT画像、触診、問診。けれど見当たらなかったのです!?

以前、確かにあった筈の?しこりそのものが…なかったのです!

医師は首をかしげ言いました。「おかしいなぁ…。確かにあった筈な
のに…そんな訳ないけどなぁ…?」

そしてその日、ちょうどその病院に来ていた或る医科大の有名な医
師と、もう一人別の医師、看護婦立ち会いのもとで検診をやり直しま
したが、結果はやはり…「何もない…」でした。
                  
                        
自宅に戻り母に半信半疑で事の一部始終を伝えると、今度は母が
逆に怒り出し、「誤診に決まってる!そんな、あったものがなくなる
なんて事はないんだから…。誤診なんだから訴えてやる!」ともう大
騒ぎで姉の方にも伝わり、       %プンプンwebry%}


心配した姉から、「あと、2か所ぐらい別の病院できちんと検診しても
らった方がいいから検査は受けな…。」といわれ、不安も残っていた
私もその言葉に同意してその後、市の乳癌検診と他の医療機関で
の検診を受けました。

結局、異常は見つからず、私はやっと安心して胸を撫で下ろしました。
                    

それ以降は体調を崩したりした事もありましたが、大病はせずにすみ
ました。

『子供は親の背を見て育つ』とよく言われますが、この頃の私は子供
にたくさんの不安を与え続け、ゆとりをもって子育ても出来ず、愛情
いっぱいのお母さんだったとは決して言えなかったように思います。


こんな環境で子供が育ったら、健全な子供でも精神状態が不安定
になってしまうに違いない。

まして、我が子のように精神的に問題を抱えている子供がこんな環
境の中で育てられるのは、本当に子供自身にしたら、荒れ狂う大海
の中に投げ込まれたようなものだと思えるのです。 
                           


私自身が、この時子供の父親の『ビザ申請』のことばかりに集中し
なければ、そしてもっと早い時期に子供のサインに気がついてあげ
られたかもしれない・・

成長過程で起こる様々な問題に正面から向き合ってこれたかもし
れない。


今になって、たくさんの想いとたくさんの後悔に私の心は埋め尽く
されそうになってしまうのです。    

     


     

               ☆*:・°★:*:・°(次回につづきます。)

【8】 保育園での 問題行動と 様々な事態の中で~

この頃、子供を保育園に預け、私はK市から3駅先のT市にある
出版会社に法令書の校正の仕事で通っていたのですが、交通費
節約のためと片道40分を自転車で通勤しました。  

友人からは半ば呆れられながら「よくそんな距離を自転車で通う
ものねぇー。」と…。
本当に体力はあったのです。だから、私自身癌と宣告されても信
じられなかったのだと思うのです。        

病気とは別に子供が熱ばかり出し、そのたびに保育園からの「お
迎えコール」で、出版会社を辞めざるを得なくなってしまいました。
                              

子供の父親の書類申請と子供を保育園に預けて働く日々の中で
の医師からの「癌の告知!」それでもこの時必死だったのです。

「何とかなる…。何とかしなければ…頑張ろう!」そんな思いでいっ
ぱいでした。                       

こんな状況が渦巻いていたため、毎朝子供がパニック状態で大騒
ぎして保育園に向かう自転車に乗るのを嫌がったり大泣きしても、
精神的にゆとりがなかった私は子供を無理やり自転車に!

まるで縛り付けるかのようにベルトでしっかり押さえて、住んでいた
アパートから町のはずれにある保育園まで、片道20分かけて登園
していました。


7:50分から夕方の5:30分までの長時間保育でしたから、子供
のお迎えの帰りに買い物をし、帰宅して夕飯の準備と食事。

そして遠くの銭湯へ自転車で行って入浴をして帰って来ると、もう
子供を寝かせる時間…。

子供が寝た後、子供の父親の書類申請のための情報収集と、同
じ状況下の人達との交流を求め、外国人の或る会に入会しました。


そして、まともに出来るとも思えなかった世話人役を引き受けてし
まった為に、会員に向けての手紙の発送や電話連載。

その他の雑用などに追われている中で、子供の父親の深夜帰宅
の為の夜食も作って起きて待つ日常生活が続き、この時期3、4時
間しか睡眠を取れなかった過酷な日々でした。


こんな状況でしたから、知らず知らずのうちにストレスがたまってい
たのかもしれません。

後に専門書の中でそうした記述を目にした時に、そう考えたりもし
たのですが…。   

--*--*--*--*--*----*

子供は毎日、保育園でお友達を叩いたり、蹴ったりとかなりの乱暴
ぶりを発揮しては保母たちからしかられたり、注意を受けることが日
常茶飯で、お迎えの度に私を待ち受けていたのは、いつも顔を見る
なり飛び出してくる保母からの注意勧告でした。

「今日は〇〇ちゃんにこんな事をした…叩いて泣かせた…、髪を引っ
張った…。」と指を折る。
保母たちの指は毎日4~5本も曲がるのです。


お休みの日に公園や遊び場につれて行けば、他の子達が和気藹々
と楽しく遊んでいるところへ行き、遊んでいるおもちゃを取り上げ、そ
のおもちゃで叩いたり、砂遊びをしている子が苦労して作り上げた砂
のトンネルや山を足で崩したり壊したりしてしまったりで、他のお母さ
んたちから随分批難されたり、白い眼で見られたり…。

こんな事が数え切れないほど、語り尽くせないほどありました。

                             続きます 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。  





なぜわたしたちは0歳児を授かるのか-親心の幸福論
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松居 和

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 【7】 与えられた 試練の中で~


「ここのところ・・ お休みをしてしまい、すみません
 でした・・」

☆☆*・~・*・☆*:・★:*:・乳癌の宣告~!☆☆


子供が一歳8か月のころ、私はある国立の病院で
乳癌の宣告をされました。  

それでも私は、なぜかのんびり構えていて自分が
死ぬなどとは想像もしなかったし、また乳癌自体が
それほど驚くような病気とは思っていなかったので
す。              


実家に電話を入れ母に「私、乳癌だって…」これを
聞きパニックになったのは母でした。  

数日後心配した姉からも連絡があり、「そんなにの
んびりしていてどうするのよ!早くきちんと治療を受
けなければダメじゃない!

何してるのよ!子供はどうするのよ!入院しちゃった
ら誰が面倒みるのよ…。」           

こう言われ、それでも姉に、「うん…、わかってるけど、
大丈夫じゃない…?」

まだ実感がなかった私はこんな返事を姉に返してい
たのです。
               

この時、私のことをこんなふうに心配していた姉が数
年後、癌に侵され自らの命を失ってしまうとは、姉自
身も他の誰も考えてはいなかったのですから… 

☆*:・°★:*:・

私はそれでもやはり日が経つにつれ、「もしかしたら…

私は本当にこのまま死ぬのかもしれない…」

と、不安になり、書店や図書館に足を運び、医学書や
癌についての本を必死で読み、少しでも自分の内側
に何か救いを見出そうとしていた私自身がありました。
(不安はあってもなぜか?恐怖心はその時なかったよ
うな気がします。) 
               


「早く医者に行け!早く治療をしろ!」と、言い続ける
母と姉の言葉をよそに、私は文具店から一冊のノート
を買い求め、我が子に向けての『遺書』のようなものを
つけ始めたのでした。            

子供の出生時の記録や状況、親しい友人…父親のこ
と、身内のことなど。また困ったとき尋ねる友人の住所
や電話番号などを記入していきました。



けれどいつの間にか冷静に自分の病気を捉えている
自分がいることに気づいていました。

もし、ここで自分の生命が終わるのなら、それは決めら
れた事で仕方のないこと…。きっと、決められたように
なる…
               

そう心の中で思いながら、病院のCT画像、触診、問診
で私自身も確認した「胸のしこり」を自分の手で触りなが
ら…

「ある…。しこりが…」     

言葉に変えられない想いは、その時私の心のどこかに
吸収されていったのかもしれない…   

              

     (次回に続きます)☆彡☆彡☆彡





乳がんを抱きしめて ~39歳で乳がん患者だった私の治療記~
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小堀 昌子

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こんな付き合い方もあ ...
乳がんを知らなくても ...

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